#3 『戦争の法』 佐藤亜紀

戦争の法
臆面もなくぶっちゃけますが、日本ファンタジーノベル大賞受賞作『バルタザールの遍歴』でデビューしたときから、この人の小説のファンです。思えばこの頃のファンタジーノベル大賞はかなり面白いセレクトだった。だって初代大賞はあの『後宮小説』(酒見賢一)ですよ?(←これも大好き) 最近は追っ掛けてないのでわからないけど、あの当時はこういうジャンル分けしにくい傑作にちゃんと賞を与える文学賞で、結構毎年注目していたのだ。

佐藤亜紀の作品もどれとしてぴたっとジャンル分けできるものはないんだが、まず特徴的なのは文体、語り口。硬質で辛口、毅然として明解、ときに饒舌、ときに狷介、いかな対象物を語るときでも崩れない美意識、かと思えば馬鹿を馬鹿と断じる小気味良いストレートさ。いくらここで並べ立ててもわかりっこないので、これはもう読んでもらうしかない。

『バルタザールの遍歴』も『鏡の影』も『1809』も傑作だけど、一つだけ選ぶとすれば『戦争の法』だ。前の三つはどれもヨーロッパが舞台だけど(ヨーロッパ貴族の気質や美意識、その退廃、虚飾と傲慢まで含めて、ヨーロッパ支配階級を描かせて佐藤亜紀の右に出る者はいない!)、『戦争の法』は日本が舞台。しかも、どう読んでも新潟。ちなみに佐藤亜紀も新潟出身です。

ある日突然、N***県(ね?(笑))がソ連と手を結んで日本から分離独立を宣言し、一気に無政府化。地元の身も心もローカルな有力者が新政府(と言ってもやっていることはさして今までと変わらない)を構成し、ソ連から送り込まれたロシア兵がうろうろし、山中にゲリラが潜む。東北の県が分離独立!というと、咄嗟に井上ひさしの『吉里吉里人』が浮かぶけど、生憎私は読んだことありません。でもおそらく全然テイストが違うんじゃないかと思う。

『戦争の法』における分離独立には、中央に対して反旗を翻すとか、蔑ろにされてきた地方が立ち上がるとか、そういう気概が一切ない。独立の経緯からしてよくわからない。「なんとなく」独立したことになっていて、「知らない間」にロシア兵がそこらへんをうろつきまわり、「いつのまにやら」ゲリラが組織されて戦争もどきがはじまっており、戦時だっていうんなら何でもアリなんじゃないの?と辺りをきょろきょろ見回した一般市民が「それでは」とばかりに物資の横流しやロシア兵相手の娼館をはじめたりする。要するに、現代の日本でなんとなく生活している一地方の一般市民が無政府状態におかれたらどういう行動に出るかというのが、かなりリアルに描かれている。一般市民にとっては小市民的自己の生活がすべてだ。一般市民に長期的視野はない。戦争になれば戦時に順応し、戦争が終われば平時に順応する。結論から言えば、それで正解なのだ。日和見的小市民的利己主義者たれ。ぶちあげられたプロパガンダこそ、いくらでも取替えのきく日和見な代物なのだ。自己保身と利潤追求を忘れるな。

一方で主人公の「私」は戦争に順応しすぎて平時にうまく順応できない人物だ。戦争がはじまるとろくでなしの父親は姿を消し、あとで再会したときには闇商人になっている。残った母親は密造酒を作りながら娼館を経営しはじめる。中学生の「私」は友人の千秋とゲリラに身を投じ「伍長」と出会う。この「伍長」の造形がまた素敵だ。とんでもなく頭が良くてロマンチストでオペラ好きで戦争好きでゲリラ活動に兄弟喧嘩を持ち込む公私混同。伍長に感化される形で「私」は戦争にのめりこんでいく。結局戦争はこういう人物が動かしているに違いない。その間、一般市民はひたすら利潤を追求し、戦争が終わったら戦時のことは忘れて平時仕様に切り替える。つまり「戦争万歳」から「あの時代は酷かった」への変身だ。そしてそこまでの切り替えのできない「私」が、その見事な変節っぷりに半ば感心、半ば呆気に取られながらこの物語の語り手となる。なんともニヤリとさせられる設定ではないですか。最も公正な戦争記録者は常識的な一般市民でも反戦主義者でも平和主義者でもなく、実は最も平時に順応できない者である……

だらだら書いたけど、もうこんな説明、蛇足に靴と靴下履かせたくらいにどうでもよくて、とにかく「私」も「伍長」もその他の人物も魅力的、ドンパチありドタバタありの展開は文句なしに面白い。

残念なことに佐藤亜紀のこの頃の著作はほとんど絶版になっていて(ホント恨むぜ新潮社)、ご多分に漏れず『戦争の法』も新潮社刊の単行本、文庫ともに絶版ですが、最近ブッキング社から復刊されました。めでたい! それでなくても良心的な図書館ならまず入ってますので是非。

ふと思ったけど、地方性と確固とした価値観を併せ持ち、頭の切れる、決してイイ人でなく暴力も辞さない主人公という設定、今読んでる舞城王太郎煙か土か食い物』とちょっと共通する気がする。