生誕100年記念にカテゴリ作っちゃいました。(何という言い訳!)

来ました! HMVAmazonに比べて注文後のケアがきめ細かくていいですね。

生誕100年だというのに世間はモーツァルトだのバッハだのでタコ方面はイマイチ盛り上がってなーい! 仕方ないのでここで地味に一人でタコ祭りします。と言ってもタコさんにも歴史的背景にもそんなに詳しいわけではないしそもそも交響曲すらまだ全曲コンプリートしてないしなので、今年はなるべく沢山の聴いたことのないタコ作品を聴いて、良かった作品や好きな作品をここで臆面もなく垂れ流したいと思います。


というわけで、『森の歌』。最近合唱曲にハマりつつあると言ったところ、合唱をやっている知人が薦めてくれました。合唱やっている方にはよく知られている曲とのことでしたが、私は聴いたことありませんでした。
ショスタコーヴィチの所謂「体制に迎合した」作品。歌詞にはバリバリにスターリン主席マンセーな1949年版と、「いくらなんでもこれはどうよ」ということでもうちょっと普遍的にした(でもやっぱり共産主義マンセー)な1962年版とがあるらしく、今日使われるのは勿論ほとんど62年版なんですが、フェドセーエフは意識的に1曲目だけ49年版を使っているそうです。きっとロシア人だけがドキッとするよね。意地悪だ。
まずは歌詞対訳を読まずに今聴いているんですが、音楽としては実に聞きやすい、わかりやすく良い曲です。これ、宗教曲だと思って聴けばいいわけですよね。少なくとも当事者ではない我々が聴くには、このスタンスが一番理解しやすい気がする。ミサ曲はキリスト教徒が神を讃える歌で、これは共産主義スターリン)の信者が共産主義スターリン)を讃える歌なわけです。ただこの場合、作曲家自身を含めた「信者」が本当に心からの信者だったかどうかが問題。そう考えると、「体制に迎合」して「賛美」しているはずのこの曲の、最終和音のやけくそのような引き伸ばしとクラスタコードかよってな轟音は、聴きようによっちゃすんごい皮肉ですね。「…てなわけで、こんな感じでいいっスかね?」とでも言わんばかり。