死んでいる

この小説って、日本古代の殯と似た発想なのかなと思った。
殯は風葬の一種とも捉えられるそうだ。実際のやり方も今やあまり詳細にはわかっていないけど、人が死んだら本葬するまで、かなりの長期間、棺を仮安置(殯屋だとか庭だとか諸説)して、近親者で死者を偲んだという。一説では、これは遺体が白骨化するのを待って埋葬したんじゃないかとも言われている。沖縄などには似た葬礼のやり方が残っていたらしい。
この小説では誰ともつかない語り手が、完全に第三者的に、それこそ作中で殺され海岸に放置される動物学者たちのような観察眼で、死んでいる主人公たちが腐敗し動物に食われ微生物に分解されていく様子を克明に記していく。その過程は、宗教が死に対して用意した救い(例えば天国だとか浄土だとか)とは全く異質なのに、確かなカタルシスをもたらすのだ。
これが無神論者が辿りついた死の消化方法なのだろう。そしてこれは日本人にはどこか慣れ親しんだ感覚ではないかなとも思った。つまりは「すべては土に還っていく」のであって、ただそのことを描いただけとも言えるけど、しかしそれをここまで徹底的に、しかも静謐に美しく書いたところが傑出していると思う。
多分、キリスト教文化圏の人が無神論者でいるには、強い自覚と方向付けが必要なんだろう。その点、日本人はナチュラルに無神論者で(所謂一神教的な神を信じてないって意味で)、人がただの肉になる過酷な過程を消化するのに、神とか天国とかに元々頼っていない。古事記イザナギイザナミの腐乱死体を見て黄泉の国から逃げ帰る。黄泉の国が連れ去った死者の分だけ地上に命を生み出そうなどと、生死のバランスシートを作っちゃうくらいの感覚。
ふと思ったのは、西洋の死生観は線で、一人の生はただ一つだけ。徹底した個の単位。生まれてから死んで天国や地獄に行ったとしてもアイデンティティはそのまま。(だから天国や地獄もそのうち死者で溢れてパンクするんじゃなんて話にもなる) 東洋は輪廻の発想ひとつ取ってみても環で、生死の間で転生だとか祖霊だとか、個のアイデンティティがどこかに呑み込まれてしまう大雑把さ。そのあたりの違いも、この小説が生まれる背景にあったのかなあと思ったり。