アイヒマン調書

レス で、あなたは命令を遂行する際、それに関する法律を理解していましたか? 法に反するような命令というものはなかったのか?
アイヒマン 違法な命令? いいえ、いいえ!
レス これは違法な命令だが、それに従うのか、それとも拒否するのか、といった訊かれ方をしたことは?
アイヒマン いいえ、そんな……大尉殿、そんな……何と言ったらよいか、そのような違いは、そもそも問題にされたことすらありません。というのも、命令は命令だ! というのが前提だったからです。各人は要求された誓いに則って、命令を遂行するだけでした。
レス その命令がいかなるものであっても、ですか?
レス 戦時中は、そうでした。誰であれ、踵を打ち鳴らして「了解しました」と答えるのが義務でした。それ以外の選択肢はなかったんです。

(p237)
1960年、元ナチ親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンはアルゼンチンでイスラエル情報機関モサドに拘束され、イスラエルに移送されて裁判にかけられた。アイヒマンはナチのホロコーストの実務面でのキーマンだった。
上下二段組、昨今の拡大化の傾向に逆らう細かい活字の尋問記録は、予想に反してその凄まじい臨場感と緊迫感で息もつかせずに読ませる。アイヒマンが語る几帳面で詳細な供述は、ナチという官僚機構がシステマティックに実行したホロコーストの実務を暴いて圧倒的だ。
アイヒマンの供述は最初のうちは饒舌なほどで、どことなく取調官に対する余裕さえ見られる。それが、イスラエル警察がアイヒマンの言行に関する証拠文書をいくつも探し当て、突きつけながらの尋問を経ていくうちに、おどおどとした自己弁明の口調に変わっていくのがわかる。
尋問記録から浮かびあがるアイヒマン像は、あくまでも小市民的な、あまりに普通の、どこにでもいそうな小役人だ。自分はユダヤ人の移送を担当しただけで、移送した先でどのように処遇されるかは責任の及ぶ範囲ではなかったと一貫して主張している。
一方で、イスラエル警察が集めたニュルンベルク裁判などでの関係者の証言や、巻末に収録された実際に尋問を担当したレス大尉の証言からのアイヒマン像は、尋問記録での印象と乖離している。中佐というナチのヒエラルキーの中では中位以下のポジションを不満に思っている様子があり、ヒムラーなど最高幹部との直接の命令系統を嵩に着て権力を行使し、いつも酒に酔っていて、戦争末期にヒムラーが移送中止を命令しても服従しなかったと言われる。
どちらもがアイヒマンであり、状況が彼を如何様にも変えるのだろうと思う。自分だって同じ状況に置かれたら、彼と同じことをやらないとは言えない。むしろ、きっとやってしまうんだろうなと思う。だから、そういう状況が生み出される状況が心底恐ろしいと思う。