日本人の戦争/勝者の混迷

第二次世界大戦中の作家の日記から当時の日本人の意識を知ろうというのが作者の意図。公的な発表文書ではなく、後から手を入れたり後に発表を想定していたりということはあっても、あくまでも私的な日記を資料にするというのは、炙り出しにある程度は効果的かもしれない。
当時の知識人階級であった多くの作家が、大日本帝国万歳、大東亜共栄圏万歳の熱烈愛国的日記を書いているのは、まあ何となく想像がつくし不思議でもない。一億総マインドコントロール状態だったに違いないから、むしろ後になって「内心では反対だったけど仕方なく…」とか言う発言のほうが信用できない。特に英米をよく知っているはずの英米文学者ほど、強硬な国粋思想を露わにしているというのも、言われてみれば納得できる。伊藤整とかすごい。アングロ・サクソンへのルサンチマンに満ちている。吉田健一も結構すごい。後になってあんなに英国マンセーなエッセイを書き散らしてるわりに。

……私はこの戦争を戦い抜くことを、日本の知識階級人は、大和民族として絶対に必要と感じていることを信ずることができる。私たちは彼等の所謂「黄色人種」である。この区別された民族の優秀性を決定するために戦うのだ。ドイツの戦いとも違う。彼等の戦いは同類の間の利害の争いの趣があるが、我々の戦いはもっと宿命的な確信のための戦いと思われる。

(p25)

開戦直後の伊藤のエッセイは図らずも自分の民族への劣等感を吐露している。彼ら英米文学者ほど、日本人が絶対に英米人にはなれないこと、その歴史を追いかけ、追いつくことは到底できないことを骨の髄から思い知っていた人々もいなかったんだろう。そんな必要もない、とも思えなかったのは、ある意味、真面目な所以か。
一方で山田風太郎も、後年の作風からは想像がつかないほどの熱烈な愛国少年ぶりを示しているけど、態度がブレず、ストレートで筋が通っているから嫌な感じがしない。だいたい、そういう日記をそのまま戦後出版していることがすごい。普通なら出したがらないだろうし、出しても体裁取り繕ったりするよね。

僕はいいたい。日本はふたたび富国強兵の国家にならなければならない。そのためにはこの大戦を骨の髄まで切開し、嫌悪と苦痛を以て、その惨憺たる敗因を追求し、噛みしめなければならぬ。

(p137)

敗戦の際の山田の言葉は、目的はともかく至極真っ当。
当時の体制への消極的批判を示したのは永井荷風内田百輭大佛次郎もかな。若干態度が揺れながらも常識的な批判をしているのが高見順、検閲を恐れて日記をフランス語で書きながら、明確に批判・反対の態度を貫いているのがフランス文学者・渡辺一夫

・国民のorgueil[高慢]を増長せしめた人々を呪う。すべての不幸はこれに発する。

(p95)

戦中はずっとラブレーの翻訳に邁進していて、でもそれが全部焼けてしまって、「ラブレーは遂に日本に無縁なのだらう」と嘆いたそうな。こういう感覚の人は、現代に至っても稀有。

このシリーズ、表紙に七生さんの趣味で選ばれた肖像が載ってるじゃないですか。これ、すごく重要なファクターですよね。読み進めるモチベーションが違いますよね。前巻の小狡いイケメンのスキピオとか素敵だし、次巻の眉間の皺も渋いカエサルおじさまもいい感じなんです、が……なんか、この巻……。駄目。イマイチ。士気に関わります。できれば本文内の口絵に載ってるスッラ様にしていただきたかったです。
と、また下らない感想で立派な著書を汚す私。
いよいよ大国になったローマが内患外憂に苦しみますが、それもこれもカエサルおじさま登場の布石としか思えない。というか、そうとしか思えない書き方であります。もうさ、本の厚さがあからさま。ほとんどがスキピオさんのエピソードのハンニバル戦記より遥かに薄いんだから。その後のカエサルおじさまの巻なんて上下二巻、その片方よりも薄いんだから!(笑)
でもですね、私としてはこの時代の保守鷹派イケイケ親父スッラ様を、もっと微に入り細を穿って書いてほしかった…! こういう頭良くてふてぶてしくてずるくて現実的でずうずうしくて冷酷で愛嬌ある男は大好きであります。その上、娼婦に貢いでもらえるくらいイケメンだったと言うではないですか。口絵の彫刻もいかついしかめっ面ですけど、これがプライベートで緩んだらどんだけ愛嬌あるかと。何せ私生活では徹底的なエピキュリアンだったそうですからな。
グラックス兄弟はあまりな死に方で涙が止まりませんが、こういうド真面目な左翼革新派青年より、清濁(というか濁ばかりか)合わせ呑んでけろっとしている保守派の厚顔な親父が強いよなやっぱり。

あ、忘れてたけどポンペイウスって人もいたな。(脳内位置づけが丸わかり)