ピアノ・ノート

  • 『ピアノ・ノート』 チャールズ・ローゼン/朝倉和子 訳(みすず書房)(12/22)

金属と木材と象牙(今ではプラスチックのほうが多いが)の組み合わさったピアノという楽器、もはや恐竜と化したコンサート・グランドピアノという楽器に身体的に触れていたいという、この説明しがたい、ほとんど物神愛的(フェティッシュ)とも言える欲求(必要性)こそが聴衆に伝わり、音楽に不可欠な一部になるのである。

(p10)

今日、やや硬めでプリリアンスのきつい整音がほどこされていることの多い新しいピアノから、反応がゆるやかで音質の落ち着いた古いピアノに変えることは、大型トラックからフェラーリに乗り換えるようなものだ。

(p75)

何年か前、ローマのカラカラ浴場で一万人の聴衆を前に『アイーダ』が上演されたときのこと、最初のアリア「清きアイーダ」が終わると九千九百九十七人が大喝采をおくり、三人のドイツ人観光客が眉をしかめて「シーッ」と周囲をたしなめたという話を聞いたことがある。

(p124)

このころのピアニストが弾くのはほとんどが自分の作品か直近の同時代作品で、過去の作曲家(たとえばドメニコ・スカルラッティヘンデルヨハン・ゼバスティアン・バッハカール・フィリップエマヌエル・バッハ、ヨハン・クリスティアン・バッハなど)の鍵盤音楽は一七九〇年代になるまで公共の場で弾かれることはまずなく、半公共的な室内楽の集いですらめったに演奏されなかった。こういうものは教材として私的な場でのみ演奏された。この時代はアマチュア・ピアニストでさえ作曲や即興ができてあたりまえだった。

(p163-164)