プロイセン絶対王政の研究

主にフリードリヒ・ヴィルヘルム一世、フリードリヒ二世(大王)の時代のプロイセンの社会制度の研究書。ゴリゴリの学術書だけど、案外読みやすかった。

 絶対主義――ここでは特に絶対君主制の意味で用いる――とは一般に、全国家権力が君主のもとにあり、君主はいかなる他の機関やまたいかなる実定法にも制限されることなく、自らの意志に従ってのみ全国家権力を行使するような統治形態と理解されている。

(p2)

しかし実際には、

三つの法が王権を制限する。つまり(1)書かれたものではないが、サリカ法典以来の「本能のように心の底にまで刻み込まれた」基本法、(2)臣民の自由と所有権を尊重する自然法、(3)王は塗油されたものであるが故に神聖であり、神の自愛と正義とでもって臣民を取り扱わねばならないという神の法である。他方、王権が絶対的といわれるのは二つの意味においてである。(1)たとえそれが制限されているとしても、上の三つの法を侵さない限り、決して臣民によって批判されることはない。(2)全体の福祉のためには王権には限界がなく、また国家の存在が脅かされている場合には、国王は臣民の自由・財産権をも侵し得る。

(p4)

この王権の絶対性の(2)を拡大解釈したものが絶対王政ということらしい。ただ、そうは言っても、実際に王権が末端にまで行政レベルで及んでいたかと言えばそうではなく、17〜18世紀プロイセンの場合、土地貴族の既得権益司法権・徴税権にまで及ぶほど強くて、これを簡単に取り上げることはできなかったようだ。逆に、王は土地貴族の支配を通じてしか末端を支配することができず、それは末端までに行き渡る行政システムを持っていなかったからだった。つまり、当時のプロイセンには(プロイセンに限らず、他のヨーロッパの国にも)、中国に見られるような強力な中央集権的官僚制度がなかったのだ。
18世紀当時、比較的官僚制度が整っていたフランスでも、官僚は個々の王や貴族が個人的に抱える使用人(家産的官僚)だったそうだ。しかし、プロイセンは軍隊に関してだけは、フランスよりも進んだ公的な官僚、国家そのものに従属する官僚制度というものを作り上げた。しかも試験で官僚を登用するという合理的な制度。当時で国土の広さはヨーロッパで10番目、人口では13番目なのに、軍事力は4番目(p200)という歪な軍隊国家を支えるためだったのだろう。この歪さの原因は私が読んだ限りでは、後進国で商工業が未発達、土地も痩せていて農業もそれほどふるわない北国が列強に対抗するためにそうなった、という説明。納得できるような当たり前のような。

…従来の国制史研究は、集権的権力国家を積極的に評価したのであるが、これは戦後、とりわけドイツ内外の世論から厳しく批判された。戦後におけるプロイセン絶対主義像の再検討の第一段階は、まず戦勝国から提起された。その要点は、プロイセンの絶対主義的軍事=行政国家のもつ権威主義的性格こそが、ビスマルクの国家を経て、ヒトラー全体主義国家に導くもので、ドイツ第三帝国における軍国主義、国家権力の絶対優越等はすべて絶対主義の中ではぐくまれたものである、という点である。

(p137)

このへんは『図説プロイセン』のハフナーさんが必死に反論している部分だと思うけど、実際のところ土地貴族が強すぎて全体主義なんてとてもとても、農民一人一人まで管理できませんという状態ではあった模様。ただし、軍隊で社会システムの大部分が回っている、という意味では、軍国国家の素地がここで出来上がったということは言えそう。

国家としての組織的な徴兵制度であるカントン制度の解説は面白かった。基本的に国民皆兵の徴兵制度のヨーロッパでの初の例なのかな? 登録制度という予備役制度(現代の徴兵期間が終わった後の予備役ではなく、潜在的徴兵対象者の登録制度)もあったとのこと。ベルリンを中心とするクールマルクでは、農村では約70人に一人が兵(p209)、約5人に一人が登録者(p213)、都市部では約86人に一人が兵(p240)、約5人に一人が登録者(p239)というから凄まじい割合。さらに都市は基本的に連隊の駐屯地になっており、都市人口に対して軍事人口が約15%、約6.6人に一人が軍人という割合。
ええと、これって例えば沖縄と比較するとどうなるのかな。wikiによれば現在の沖縄駐在の米軍人(軍属除く)が22,772、沖縄県民の人口が1,389,995、これで計算すると軍人人口約16%。プロイセンの中心部の都市はみんな沖縄状態だったってことですね…。駐屯地の住民には兵士を家に間借りさせ、世話をすることが義務づけられていたというから、状況は現代の米軍基地よりも過酷だ。当然、都市や農村の住民や支配者(貴族)との軋轢も相当にあったろうと容易に想像できる。
商工業があまり発達していなかったこともあって、都市経済も軍隊に依存していたようで、主産業は軍服製造のための毛織物。都市に特有の慢性的な労働力不足を、休暇中の兵士が埋めていたそうだ。
面白いのが、この徴兵制ができたことで、兵士の帰属意識が、それまでの農村や都市などの共同体ではなく、王家(即ち国家)に向かっていったことで、まあこれも後の絶対王政全体主義の素地になったと言えないこともない。さらにフリードリヒ大王などが、よくよく考えると君主という立場の自分の首を締めるような啓蒙主義を標榜しなければいけなかった理由が、こういう末端の意識を国そのものに対して向けさせるためだったのかも、という説は興味深い。
しかし、事実だったんだろうけど、本の中でプロイセン後進国後進国言われまくっててちょっと笑える。終章の「啓蒙の世紀」に、周辺の国の状況も簡単にまとめられていてわかりやすかった。しかしロシアはともかく、オーストリア後進国なのか…。官僚制がない、貴族の私有財産としての国という意味では、そうなのかもしれない。