神器・下

  • 『神器 軍艦「橿原」殺人事件』下 奥泉光(新潮社)

上巻読んでこりゃ渾身の戦争ギャグだと思ったが、下巻に入って、こりゃ渾身の敗戦国日本の物語だと認識を新たにした。
神器を積んでただ一隻、太平洋に漕ぎ出した橿原は敗戦国の幻想たる「本当の」日本を象徴している。ベースにしている「白鯨」に従うなら、橿原は必然的に沈むわけだが(モービィディックはまさにアメリカ?)、沈んだあとに残った日本で戦争は終わっていない。本物の日本たる神器は太平洋で迷子になったまま、平坦な戦場が続くのが現代日本だった。その神器にしたって「本物」かどうかなんて誰も知らないし検証もしない。検証もしないまま今まで来たのが戦後だったと言えるだろう。
橿原艦内の有象無象は戦時下日本のカリカチュアだ。橿原は神器を載せているというが誰もそれを確かめた者はなく、ただ憶測で艦内の空気が支配される。狂信的な「鉢巻党」が下級兵中心に発生して敗戦の可能性を口にする上官を次々リンチにかけ、自殺者が多発する。艦内をゲシュタポのごとく暗躍する衛兵司令の大黒尻大尉の節操のなさは、敗戦日を「終戦」記念日と言い換えて暮らしている私たちに突きつけられた私たち自身の姿だ。
全編に溢れる波打つような鼠の大群のイメージは、そのときの群れの雰囲気にただ従い、追い立てられるように走り回ってかじり続けて何も省みることなかった日本人のイメージ。そして橿原は鼠の巣窟だった。
ラストでタカマガハラ即ち沈没に突き進む橿原の疾走感は晴れ晴れとして、どこか吹っ切れたようなやけくそのような明るさが漂う。どこか「終戦のローレライ」を思わせて、でも全然違う読後感だ。日本兵の亡霊(鼠)も、日本兵に殺された日本兵の亡霊も、日本兵に殺された他国の人々の亡霊も纏めて満載した橿原の疾走は、単純に日本兵の努力だけを称揚したローレライへのアンチテーゼとも言えそう。
構造について言えば、いろいろな時間空間がモザイク状になって一見破綻寸前だけど、それを繋ぐのが鏡。橿原と靖国と、戦中と戦後の声が語り合う超時空間の鏡池が連結している。いろんな作品のパロディも盛り込まれていて(私が気づいただけで「白鯨」、「黒死館殺人事件」、「石の来歴」、「虚無への供物」、多分他にももっとたくさんある)楽しいけど、カオスギリギリのところで話を縒り合わせていく語りはお見事。天皇靖国に対する突っ込んだ記述も多くて(結構ひやひやする…ということ自体がこの問題の問題たるところ)、著者としてもかなりの覚悟の作ではないかと思う。まあほとんどのウヨはこんな作品読まないだろうから、心配ないかな。デリケートな問題をボリューム的に長大な作品に埋め込むっていうのは、わりと実際的な方策かもしれない。
超時空間で繰り広げられる劇中劇は表現としてあまりにもストレートな気もするが、紛れ込んでいる現代からの声を語る毛抜け鼠の突っ込みが良い清涼剤になっている。
傑作。