本日の座礁本

昔、『殺す・集める・読む』を読んで面白かった記憶がうっすら残っているだけに、これには心底がっかりである。本の悪口を言うときには一応最後まで読んでから言うのが礼儀だと思っているが、これはもう読み通すのが不愉快で、人生の限りある時間を浪費するのが耐えられなくなったので、投げることにした。
不愉快あるいは評価できないと思った点は主に以下三点。
まず、文体が通常の論文あるいは評論の文体ではなく、半端に口語に近い語調で書かれている。これは上手くやれば大変な効果を上げるが、話芸と一緒で滑ったときには目も当てられない。しかも語調(すなわちはなし口調)というのは非常に好き嫌いが別れるもので、私にとってはこの語調は完全に滑っている。不愉快である。何かをきちんと主張したいときには、折り目正しい言葉で書いたほうがよいという反面教師にしようと思ったくらい。
第二に、議論が乱暴。取り上げているテーマは面白いのに(例えばニュートンの『光学』に当時の詩人や文学者が熱狂して英語表現が飛躍的に増え、英文学の様相が変わり、そこから「啓蒙」に繋がっていったという点など)、上の語調で「奇想天外!」と括ってしまうだけ。関係する研究者の名前や著作を列挙するだけ。気づいたことをぽんぽん列挙しているだけで、ほとんど分析がない。
第三に、第二の点に関連して、従来の研究のこきおろしと己の自慢話に終始している。この著作をざっくりまとめると、他の研究者や従来の研究で無視あるいは気づかれなかったことに、俺が、俺だけが気づいた! という主張に尽きる。文中には「呆れ果てた」とか「許しがたい」とか「アホな」とかいう刺激的かつ主観的な記載が乱れ飛ぶ。新しい研究は旧来の研究への批判から現れるのは当然だが、それをこうもあからさまにやるのは下品であり、俺が俺がと声高に言うのはストレートすぎてみっともない。読者を鼻白ませることなく他者をこき下ろして、却って胸がすく思いをさせるというのが、高度な罵倒芸なのだ。それに、腐すに足る論拠が(十分にあるのかもしれないが)十分に書かれていない(第二の点で分析がないと書いた所以)。
さらに、ここで主に腐されている事項は、旧来の研究内容そのものではなく、過去に高山氏が気づいたと主張していることに気づいた人(研究者)はいない、あるいはそう言った人(研究者)はいない、という点だ。しかし、ある発想が完全に新しい、ということを証明するのは実は難しいはずだ。そう断言するには、少なくともその分野の過去の全ての研究書あるいは著作あるいは発言録あるいは事例の記録に目を通さねばならず、そんなことは不可能だからだ。例えば、「1980年代以降、マニエリスムを論じている美術史家は日本では皆無である。」(p65)と書かれている。けれども、門外漢の私が知っているだけでも、若桑みどりの『マニエリスム芸術論』は1980年の初版刊行である。当然、外国にはもっとあるかもしれない。「日本では」と断り書きが入っているのは賢明だが、ふーん、じゃ要するにここで「俺が最初! 俺が最初!」って言ってることもドメスティックな話なのね、と根性悪は思ってしまう。
なるほどこの本は講義と銘打っているので、これは論考ではなく講義録なのかもしれない。限られた時間内で口頭で伝える講義であればこその、上で指摘したような荒っぽさなのかもしれないが、だとしてもこれは、教壇でしばしば見られる、講義するテーマ(ここでは英文学だったはずだ)そのものではなく自己の信条あるいは自説の主張に終始する教師のそれと言わざるを得ない。そして、そういった内容をそのまま書籍という別の媒体に変換したのは失敗だったろうと思う。
ちなみに、この本を投げて、同じ著者の『アリス狩り』を今読んでいるけど、これは真っ当に面白い。おそらくこの本は、何か勢いだけで出しちゃった本なのだろう。