神の摂理は世界の秩序の混乱でもなければ異常でもない。それは世界の秩序そのものだ。というより、この宇宙に秩序を与える原理である。唯一にして永遠なる叡智、諸関係を支配する綱として宇宙にくまなく広がる叡智である。

(下巻、第3部、p154)

正直言って上巻の第1部第2部はだるくてかなり読み飛ばした。前に読んだ『自由と社会的抑圧』で、必然的に抑圧に加担するものとして集団を否定したはずのヴェイユが、政治的(即ち支配的)枠組みとしての国家ではないものの、文化や地域住民の集団としての祖国を認め、これが存亡の危機にあるときには、その成員は身を挺して祖国のために働くべきだとする愛国者の態度に180度転換する。彼女はユダヤ系のはずだが、それでもドイツがフランスを侵略し占領したという事実は、ここまで主張を転換させるほど衝撃的だったのだ。
一方で、第3部の後半は神学的で、屋根裏部屋に光が差し込むような文章だった。私が読んだ限り、ヴェイユの言う神とは、所謂キリストだとか一般的にキリスト教の神として語られる人格神ではなく、真理または善そのものであり、神の摂理とは世界の秩序、世界を貫く法則だ。同様に、彼女の言う労働とは、献身に近いものではないかと思う。
ヴェイユは神を人格神的に信仰することを、或いは縋ることを、偶像崇拝として退けている。人格神でなければ、神が人を救うか救わないか、或いは神の意志なるものが問題になる余地はない。現世利益的、来世利益的、そして名誉のための信仰は、全て退けられている。
人間は世界の秩序の前には、自分の意思は意思として保ちつつ服従するしかない。そういう意味での、世界の秩序を仮定するものとしての神の存在であれば、私は信じられる。神は決して人を救わないが、それでも存在する、という主張にも矛盾はない。神は人間の意思とは無関係な存在なのだ。
これまで私にはキリスト教ユダヤ教イスラム教といった一神教の神ばかりでなく、仏教(主に日本での)を含む多神教に対しても抜きがたい不信感があったのだが、それは人格神に対する不信だったのだと気づいた。日本における仏教はほぼ多神教だし、古代ローマも祖先崇拝に近い多神教だけれども、一神教だけでなく、それらさえもしっくり来なかったのは人格神的な側面が強かったからだ。逆に、神社などに祭られている自然神に近いものに対して敬意を表するのにあまり抵抗がなかったことにも納得した。自分のことは自分でもよくわかってないもんだとつくづく思った。
間違っているかもしれないけれども、少なくとも私はこの本をこういうふうに解釈した。上下巻は長くてしばらく読み返す気力がないけれども、死ぬ前にもう一度くらい読み返して印象が変わらないかどうかを確認したい気がする。