美術の解剖学講義

日本ではどちらかというとキワモノ扱いの著者ですが、この人の解説はとても筋が通っていてわかりやすい。そうか、あの衝撃的なセルフポートレートにはそんな意図があったのか、と目から鱗バリバリです。セルフポートレート論、女優論が特に面白かった。

絵画とは見ることと見られることの分業のシステム(法則)であり、また見るものによって見られるものが所有されるためのツール(道具)である。

(p189、五時間目 セルフポートレート論)

私は成長ホルモンと男性ホルモンおよび女性ホルモン、それから整形手術が自由に安全に簡単に、つまるところ日常化する時代を夢みます。今はせいぜい服を着がえることでささやかなイメージチェンジをはかることしかできないのですが、将来は私たちが今、服を着がえるのと同じように、皮膚を着がえたり、性を着がえたりできるようになってほしい。与えられた私たちの体や心から自由になって、自分を選びとることができれば、どんなにか楽しいだろうと思うのです。

(p208、五時間目 セルフポートレート論)

美とは未来に向かって振り返ることである。
そして美はいつも「まがいもの」としてのみ現れる。

(p225、六時間目 女優論)

まず、「ロココの衣装」は過去の美です。お手本ですね。お手本どおりの正しいロココの衣装の着かたとはなんでしょうか。当り前に聞こえますが「女が着ること」です。しかしすでに見ましたように、それらの衣装は女たちに課せられた拘束具でもありました。お手本どおりの美は、過去に向けられたまなざしにとっては懐かしい美であるとしても、もはや未来に生きのびる力はありません。私はお手本を「してはならないやりかた」で写しとろうとします。正しい着かたが「女が着る」であるならば、「してはならないやりかた」とは、それとは違った、たとえば「男が着る」ではないだろうか。女の服を男が着る行為を一般的には女装といいます。それは女の「まがいもの」です。

(p240-241、六時間目 女優論)


これまで画家はセルフポートレートで「本当の自分とは何だ」を追求してきたのだけど、森村さんは「固定的な本当の自分などない」ところから始まって「自分は何になれるか」を追求する。そして、お手本である過去の美を「してはならないやりかた」で写しとることによって、新しい美を提示しようとする。この考え方はセルフポートレート論で語られる彼の夢に見られるようにとんでもなくラディカルで、かつ差別やジェンダーの問題への強烈なカウンターパンチになっていると思う。