滝山コミューン一九七四

読んでいると、どよーんと憂鬱な気分になるのに、思い当たるフシが多すぎて読むのが止まらないヤな本だ。実際、著者の小学校時代と私とでは十年弱ほどの開きがあるんだけど、ここまで極端ではないにしろ、班制だとか児童委員会だとか行事になると矢鱈はしゃいで音頭を取りたがる教師だとか、似たような風景が展開されていたように思う。田舎だったから流行の伝播が後れていたんだろうか。でもその後転校した教育県として名を馳せる実家地方の中学校は、さらに凄まじい全体主義っぷり(当時は全体主義なんて言葉も知らなかったけど)だったような。
それにしても驚くのが、関係者に聞き込みして再構成しているとは言え、著者の小学校時代についての克明な記憶だ。私の場合、小中学校時代の記憶は薄ぼんやりとすすけて暗いものでしかなく、あまり鮮明な思い出が残っていない。防衛本能なのかな。一つ言えることは、引用の引用になるけれども、本書が引く広田照幸の記述――

学校の教員とウマが合わない子供の場合、家に帰れば、味方になってくれる家族がいるというのは、とても大事なことである。あるいは、辛い家庭状況に置かれている子供の場合には、学校が安心できる居場所になるということもありうる。家庭からも学校からも疎外されている場合は、地域のたまり場など、友人のネットワークの中で安住できる場所を見つけることもあるだろう。多元的な居場所が提供されることで、子供は疎外感や完全な孤立から逃れることができるのである。

私の場合、安住できる場所は学校の図書室であり、地域の図書館であり、本だったんだな。

メインテーマとあんまり関係ないところで、著者の鉄道好きっぷりにはほろほろと和みました。いわゆる鉄ではないけど、私もぼーっと電車に乗っているのが好きだ。学生時代は必ず在来線乗り継ぎで帰省していた。三重県亀山駅天王寺から奈良回り関西本線経由で帰省するときに必ず乗り換えに使っていたから、久々に名前を聞いて懐かしかった。電車乗りに行きたいなあ。私の場合、旅行とはほとんど電車乗りに行くことと同義だったりする。