小説から遠く離れて/建築における「日本的なもの」/731

村上春樹羊をめぐる冒険』、井上ひさし吉里吉里人』、丸谷才一『裏声で歌へ君が代』、村上龍コインロッカー・ベイビーズ』、中上健次枯木灘』、大江健三郎同時代ゲーム』の類似点と相違点を論じた評論。ありていに言えば、春樹、井上、丸谷はぼろくそ、龍は「見るべきところはある」程度、中上と大江は大絶賛という評価。前者三名は無自覚に同じ物語を忠実になぞっていて、それは単に権力の構造たる「物語」で、物語を踏み外していく「小説」ではない、とのこと。穏やかな気品ある文体で、実にぼろくそ。
しかし、理屈はいちいちもっともらしいんだけど、読んでいると「本当かー? こじつけじゃね?」とも思いたくなる。元ネタを読んでないので自信を持って言えないんだけど、本書の議論を読む限りでも『吉里吉里人』を双子の冒険譚の構造に還元するのは無理があるんじゃないのか。あと中上健次マンセーだけど、彼がそこまで自覚的に書いたんだろうかとも(勿論無自覚に書いたからと言って文学的価値が落ちるものじゃないけど)。
ちょっと気になったのが、蓮實さんは『枯木灘』での秋幸とさと子の近親相姦は偶然の出来事(p144)と書いているけど、『枯木灘』の前編にあたる『岬』では、秋幸はほぼ確信犯的に近親相姦を犯しているような。『枯木灘』を読んでないから、これまた確かなことは言えず。
しかしこの人のナチュラルに上から目線が気になる僻み根性。

  • 『建築における「日本的なもの」』 磯崎新(新潮社)(7/15)

桂離宮東大寺南大門もきちんと見たことのない私には難解すぎ。第1章「建築における「日本的なもの」」と第4章「イセ――始源のもどき」以外、横一直線に近い斜め読み。「始源のもどき」は面白かった。西行の「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」は現代語超訳すれば、「なんかわかんないけど、超感動した!」とでもなるだろうか。「なんかわかんない」ところに「神秘」が捏造されるということ。

日欧の建築書の記載手法の相違が面白い。西欧建築は列柱の配置を最重視して面や線の「構成」に至る。その基本的傾向は「物体的・構築的なもの」。これに対し、日本の建築は「間面記法」で間=母屋の正面の柱間(スパン)の数と面=母屋から四周に張り出される庇の数で、建物の平面全体像、使い方を想定可能。それ以外の細部は大工に任される。建築物を「行為的・空間的なもの」と理解していたとのこと。(p30-31、建築における「日本的なもの」)

日本の都市構成の要は「広場」ではなく「かいわい」であること。

明らかになったことは、ピクチュアレスクな都市景観を形成する西欧的な都市形成手法はみいだせないが、対照的に、一時的で仮象的(ヴァーチャル)な囲いこみが儀式もしくは祭りとして都市内部に組み立てられていることであった。

(p68、建築における「日本的なもの」)

  • 『731』 青木富貴子(新潮社)(7/16)

ときどき説明が不十分だったり指示代名詞の指示先が不明だったりして話が見えなくなることがあったけど、非常に面白く読んだ。この人の説によればマッカーサーの東京指令部は本国ワシントンをほとんど欺いて731部隊の実験資料を手に入れたことになる。覇権主義おそるべし。