読んでいない本について堂々と語る方法

  • 『読んでいない本について堂々と語る方法』 ピエール・バイヤール/大浦康介 訳(筑摩書房

多読するものこそ貧しけれ。
ハウツー本の顔をした真っ当な読書論・批評論……と見せかけてマジメの皮を被せたジョークだろこれ。だってこの本の中では引用文献に、著者がその本をどの程度読んでいないかマーク(流し読み/聞いたことがあるだけ/読んだけど忘れた/未読)と、その評価マーク(◎/○/×/××)なんてものが注としてついていて、小説の作中の本にまでこれがついている上、自著でさえも<忘>×とか書かれていたりする。そしてむすびの章には、

私自身も、本書で挙げたすべての理由から、世間の批評家たちに道を逸らされることなく、着実に、また平常心をもって、読んだことのない本について語り続けてゆきたいと思う。

とか書かれているのだ。ぶはは。

ちなみに私は自分でその本を読んだことすら忘れていて、読みながら、あれ何かデジャヴュが……とか思っていたら実は再読だったとかしょっちゅうあるんだけど、これからは「モンテーニュもそうだったし!」と大威張りしよう。

この人の持論によれば、批評とは自分自身を語ることで、つまり私の苦手な小林秀雄の俺様語りはその王道ってことになる。だけど、もしこの人の言うように教養とはその本と自分の位置関係を把握できることであり、また批評とはそれを社会的に位置づけること、つまり自分自身のポジションを決められることであるとすれば、結局そのマッピングとポジショニングができるには、ある程度は本の内容と自分の存在する空間の枠組みを把握していなければいけなくて、人生で全く一冊も読まないというわけにはいかないんだよね。とは言え人生は読みたくもない本を「教養」のためだけに読むには短すぎるのも確かだ。だから読んでなくたってどんどん吹かしちゃおうぜ、ということですね。