フーリガン戦記

マイケル・ムーアの諸作品と言い『スーパーサイズ・ミー』と言い、社会学系ドキュメンタリー分野で、体を張った突撃潜入レポートをやらかしてくれるのはアメリカ人が多い。これは英国に住んでいたアメリカ人の著者がサッカー・フーリガンのコミュニティに密着したレポートだ。

著者はフーリガンと言われるサッカー・サポーターたちにつきあってパブでビールやらその他アルコール類を非常識な量飲み、スタジアムの文字通り家畜小屋と言われる立ち見席で試合を見るどころではないヘタをすれば圧死する(実際死者が出ている)押し合いへし合いを経験し、試合後に暴徒と行動をともにして暴力行為を目撃しつつ自分も巻き込まれ(実際警官やら不特定多数に殴る蹴るの暴行を受けている)、すなわちフーリガンの中から見た暴動のドキュメンタリーだ。

最初のうちは筆者の語り口は軽妙でユーモラスでさえあって、読みながら電車の中で笑いを堪えることもあった。どうしようもない酔っ払いのイングランド人。ドイツにまで遠征してきて、バーで「ハイル・ヒットラー!」を連呼したかと思いきや、「おれたちが(ドイツに)勝った戦争」(第二次世界大戦のことだ)を持ち出してナショナリズムを鼓舞する支離滅裂さ。だがその多少(かなり)度を越して飲み過ぎの、下品で野卑でナショナリズムとマチズモに凝り固まった滑稽な集団が、ある瞬間に強盗と何ら変わらない暴徒と化すさまには、笑いが固まる。帰りの航空券も宿の予約も、試合のチケットさえも持たずに対戦国に大挙してやってくるイングランドのサポーターが行うのは、一方的な略奪と虐殺としか言いようのない破壊行為だ。

著者は終始、自分が体験する出来事に善悪の判断を差し挟まない。フーリガンたちとつきあってその一団に紛れ込んだのも「好奇心から」であり、「どうしてそういうことになるのか?」という純粋な疑問からだ。どうしてイングランドのサポーターは違法な手段で他国にまで押しかけていって暴力行為を働くのか、どうしてスタジアムで大量の死者が出るのか、どうしてイングランドの土曜はサッカーに関係する、死傷者が出るような暴動が恒例行事なのか。

そして著者が辿り着いた結論は、そこには合理的理由はない、ということだった。

それは賞金百ドルの質問への回答と言ってもいい。なぜ若い男性は毎土曜に暴動を起こすのか? 彼らはそれを、ほかの世代なら飲み過ぎるのと、あるいは麻薬を吸うのと、あるいは幻覚剤を打つのと、あるいは非行をしたり反抗的態度を取るのと同じ理由のためにする。暴力は彼らの反社会的興奮剤、彼らの心を変える体験、アドレナリンに誘発される陶酔であり、それはさらにずっと強力になるかもしれない。なぜならば、それは肉体そのものによって生成されるからであり、しかもぼくの確信では、その多くが合成されたドラッグに顕著な常習性をもつ。

(p252)

フーリガンたちは決してどん底に貧しくはない。むしろ堅実な職業と一定の収入を持っている人が多い。フーリガンたちには政治的不満はない。むしろ国粋主義愛国心に満ちて満足している。ただ群集による暴力、群集に一体化する高揚感と陶酔感のためだけに、群集に加わる。最後には著者は、その事実にただうんざりする。「もう十分だ」と思うのである。正直、私も読んでて十分だと思った。

作中でも指摘されるように、フーリガンとナショナル・フロント等の極右の結びつきは、彼ら自身の政治信条とはあまり関係がないんだろうと思う。本人たちはむしろ何も考えていないように見える。ただ極右は群集の破壊力を認めて、それを有効利用しようとしている。大体、この手のナショナリストには、国や社会にあまり愛されていないタイプの人々が多いように見える。本人の背景、心情が、政治的スローガンと結びついていない。

1990年のワールドカップサルデーニャでの暴動を描いた最終章は、息を呑むような迫力だ。一人一人では全く無害な人間が徐々に群集をなし、雨が濁流に変わるように暴徒と化すさまが生々しい。