ハリーポッターと謎のプリンス/真夏の夜の夢/ディア・ドクター

週末映画三本立て。ハリポタは先週です。
ところで、ティム・バートン監督の『不思議の国のアリス』のプレスリリースを見たのですが……ヘレナ・ボナム=カーターが志村けんみたいになってるですよ…。これまでも怪奇女優路線一直線だったけど、なんかもう戻れないところまで来た感があるよ。ハードボイルドなシャーロック・ホームズも公開が楽しみだ。ロバート・ダウニーJr好き好き。

池袋シネマサンシャイン。妹その2と観てきた。新宿で観ようと思ったら一時間前に行ったのに2つの映画館どちらも満席。仕方なく時間をずらして池袋に行った。えらい人気じゃのう。原作の予習をしていかなかったせいか、最後のほうの展開がよくわからなかった。あんまりこれといった盛り上がりがなかったなあ。ロンがどんどんぷよってきましたよ!(涙) ジャンクフードとかお菓子ばっかり食ってちゃ駄目!

新宿シネマート。楽しい映画だったけど、テンポがいまいちかなあ。ああいう演劇性を全面に出すなら舞台のほうが良いんでしょうけど、でも海や島の風景や、強い日差しの下のぱきっとした色彩の美しさとかはやっぱり映画でないと出せないし。悩ましいところですね。

  • 『ディア・ドクター』

新宿武蔵野館。これは素晴らしかった。僻地医療の綺麗事じゃない現実を描いた傑作。以下思いっきりネタバレしますので、これから観に行こうと思っている方はご注意。


僻地の農村の診療所にいたたった一人の医師が突然失踪する。警察の捜査が進むにつれ、村で神様のように慕われていたその医師が無免許医であったことが判明していく。このことは実は、映画の冒頭で、伊野医師が「僕、免許ないねん」と言う台詞で示唆される。姿を消した翌日に警察に捜索を求め、必死で伊野を探し出そうとする村人たちも、捜索が進むにつれ、だんだん口が重く歯切れ悪くなり、なにかを村ぐるみで隠蔽しようとしている気配が捜索する刑事たちにもわかってくる。
伊野は再三にわたって、自分がホンモノの医者ではないことを漏らしている。映画の冒頭しかり、研修医の相馬に「俺は偽者だ」と言う場面しかり。しかし、伊野の悲痛な告白とも思われるこういった台詞は、すべて無意識にか全く別の意味に解釈され、スルーされる。
伊野が偽医者であることは、村人たちもうすうす感づいていたことではないか。そして村人たちも、真っ正直な診断など求めてはいない。ある老人の臨終の際に伊野が、まだ手が施せるにもかかわらず、枕元に集まった親族の無言の要請に従って死を告げる場面がその例だ。結果的に、伊野の偶然の、医療的では全くない人間的な行為のために老人は息を吹き返し、伊野は皮肉にも評判を上げてしまう。そうして伊野は、村人たちに意識的にか無意識的にか、村の名医に仕立て上げられていく。
少なくとも村人たちには、伊野がホンモノの医師であるかどうか、医学的に正しい診断をしてくれるどうかなんて、どうでもよいことだったのだ。無医村に「先生」がいてくれて、望ましい診断をしてくれるというだけで、良かったのだ。農村医療の理想を語る相馬に伊野が言う「ここの人たちは、足りないということに慣れているだけだ」という言葉が重い。
村ぐるみで伊野を名医に仕立て上げる中で重要な役割を果たすのが、診療所のたった一人の看護師・大竹だ。老人の臨終の場でも親族たちの意を察して伊野を促し、土砂崩れに巻き込まれた重態の青年が担ぎこまれた際には、手も足も出ない伊野に「私、救急長かったんです」と言って的確に処置の指示を出す。そうして言われるままにした伊野の処置がまた医師としての評判を上げ――大竹看護師もまた、伊野がホンモノであろうと偽者であろうと、「村のたった一人の医師」を守ろうとした一人だった。
捜査が進むにつれ、村人たちは警察の前では自分たちが持ち上げていた伊野を、ひどいもんだと批判する。それは手のひらを返したような身勝手さと映るかもしれないが、建前としての世間のルールに対して、「足りない」現実を前にして、自分たちと伊野の両方を守るぎりぎりの処世なのだとわかる。事実、伊野に自分の病気のことを隠してほしいと頼んだ(伊野もそれに応え、応えきれずになって失踪した)鳥飼かづ子は、伊野の診断は誤診だったのではと訊く警察に対しては、伊野は「なんにも」してくれなかったと答える。しかし、都会の大病院に収容された後、そこでひっそりと働く伊野と再会すると、かづ子はにっこりと笑うのだ。
伊野を演じた笑福亭鶴瓶が素晴らしく、全編にわたって農村風景がしみるように美しい。この風景も、この映画に描かれた現実の前には、近い将来になくなるであろうことが心に重い。