夏の終止符

夏の終止符を観て来た。ヒューマントラストシネマ渋谷
ロシア映画。やりきれないけど良い映画でした。北極圏の旧ソ連基地の放射能汚染を題材にしているけど、本質的には古い古い型の父と子の物語だった。馬鹿息子と大いなる父親の物語。

以下、あらすじに触れるので未見の方ご注意。

北極圏の旧ソ連基地近くの観測所で、セルゲイと新人のパーシャは周辺の放射能を測定して本部に報告している。長く観測所に勤め、使命感とある種の覚悟を持って寡黙に日々の仕事をこなすセルゲイに対し、パーシャは外面こそ二十代の若者だが、中身は完全な子供だ。現代っ子で仕事への熱意もなく、放射能測定という業務自体の重大性も理解していない。それでも、普段無口で仕事に対して厳しいセルゲイが、ふとした拍子に垣間見せる思いやりを、パーシャも敏感に感じ取っている。観測所の主のようなセルゲイと若いパーシャは、擬似親子のような関係をかもし出す。
そんな中、セルゲイがちょっとした余暇で本部に無断で仕事をパーシャに任せ、観測所を不在にする。留守の間のパーシャの仕事ぶりは、甚だ頼りない子供の初めてのおつかい状態で、観ていてはらはらする。案の定、パーシャはちょっとした失敗を雪だるま式に肥大させ、打つ手打つ手が全て事態悪化を招き、結果としてセルゲイへの重要な報告を握り潰すことになる。セルゲイにそれを知られたパーシャは許して貰えないと思い込み、観測所を逃げ出して浮浪者のように彷徨することになる。夏とはいっても寒い北極圏を怪我をしたまま着のみ着のまま彷徨うパーシャはほとんど判断力を失い、放射能汚染された地点に近づいてしまう。錯乱状態に陥り、セルゲイを逆恨みし始めるパーシャ。
映像は淡々と、しかし救いもなく、パーシャのセルゲイに対する恐怖、悔恨、精神の荒廃を、北極圏の厳しい自然と対比させながら引き絞った緊張感で描いていく。一方で、荒涼とした背景の中でふと差し挟まれるセルゲイとパーシャの触れ合いは、思わず笑いを誘われるような暖かさで胸に迫る。白熊に怯えてパニックした挙句に怪我をしたパーシャを船で回収したセルゲイが、収獲したマスと一緒に船底に寝転がるパーシャに、気分が悪いならそこの魚を頭に載せていろ、と言うシーンがその最たるものだ。
自分自身の過ちのために疑心暗鬼に陥っていくパーシャは、ついにセルゲイ自身にも危害を与えるが、セルゲイは最終的にそれを不問に付す。被曝したパーシャを本土に帰し、セルゲイ自身はたった一人で、すでに汚染源が撤去された観測所に残る。
家族を失ったセルゲイは代償的にパーシャを馬鹿息子のように思っていたように見えるし、パーシャ自身も被曝という一生の報いをすでに受けたことからの赦しだったのかもしれない。あるいはセルゲイは、たとえ馬鹿息子であっても、被曝という放射能汚染さえなければ本来起こりえなかった報いを若者に受けさせた大人の責務として、健康を害したまま一人観測所に残ったのかもしれない。
こういう解釈もまた、福島を経験した後だからこそのこじつけなのかもしれない。