流離譚 上/中国化する日本

安岡章太郎が勤皇党に深く関係した土佐郷士の家の生まれとは知らなんだ。一族に伝わる書簡やその他の膨大な資料を駆使して彼自身の先祖のみならず、幕末当時の情勢を鮮やかに浮かび上がらせる。一次資料の引用が多く、読みこなせなくてその部分は読み飛ばしているし、幕末に興味も萌えも薄かったせいでほとんど前提知識がなく、流れを追うのが難しいところもあるけど、そういう私にもすごく面白い。
正直言って、激情だけで突き進む土佐郷士たち(特に天誅組)の行動は、ご先祖が含まれる安岡章太郎には申し訳ないが、あまりの無計画さに腹立だしくなってくるくらいなのだが、安岡章太郎は冷静かつ克明に彼らの無謀無計画とその結果の悲惨さ馬鹿馬鹿しさを描きながらも、そこはかとなく同情を滲ませていて、読んでいて胸が詰まるものがある。
これまで日本史の授業などではざっくり「下級武士の不満」と片付けられていた事情がよくわかる。ようするに身分制が社会経済的にも行き詰まって、階級固定された平サラリーマン(ひょっとすると英国で言うロウアーミドルクラスに相当するかもしれない)の不満が溜まっていたところに、外国の脅威を肌で感じるようになった西国諸藩の安全保障への要求が重なり、財政的にも傾きかけていた幕府は頼りにならんと判断されて、それぞれがそれぞれの思惑で蠢き始めたということなんだろう。
下級武士(ここでは主に郷士)の上士以上への不満は、天皇親政の下での平等を要求する勤皇思想に繋がっていくが、ここで自由平等のための救い主として天皇をかつぐという発想しか出てこなかったところが、当時の限界だったのだろう。
ちなみに、安政元年の地震津波にも言及されている。

標題の「中国化」というキーワードは、おそらく非常に意識的に、確信犯的に、著者が嫌う歴史認識のお粗末なウヨサヨその他論者に対して幾分挑発的に選ばれていると思う。文中の論調も然り。
ここで著者が言う「中国化」とは、宋朝中国の社会システムに似てくることを指しており、具体的には専制独裁体制下の単一イデオロギー自由主義経済を特徴としている。何なら独裁体制下のグローバル化格差社会と言ってもいいんだが、そう言わずに敢えて「中国化」という食いつきやすいキーワードを選んだ辺りが、や、ほんと、声の大きい雑魚が嫌いなんですね、この人。気持ちはわかるけど。
上の「中国化」というキーワードで日本史を解説していくのだが、各論については頷けるところもあり、違和感を覚えるところもあり。しかし全体として、著者が日本の旧来の社会システム評価していない以上に、中国の社会システムをも決して手放しでは評価していない(文中で「進歩」或いは「進んでいる」という用語は非常に逆説的に使用されている)こともわかる。
この解釈に自信を持って何か意見を述べられるほど日本史も日本の社会システムも理解していないので、とりあえず挙げられた参考文献をいくつか読んでみよう。