もはや労働は、自分は役にたつという誇らしい意識では遂行されない。むしろ、運命のあてにならぬ好意が施してくれた特権、まさに自分がそれを享受するという事実ゆえに他の人びとから職を奪っている特権、つまり他人ではなくほかならぬ自分が職にありつくという特権を得ているという、屈辱的で苦悩にみちた感覚によって遂行される。

(p9, 序)

おいおい現代日本の労働問題かと思うような序文だが、書かれたのは1934年フランスである。著者はユダヤ人で、医者の家庭という経済的にも文化的にもそこそこ良いお家に生まれながら、自宅に招待されていたトロツキーに議論を吹っかけて激怒させ、自らの理論を確認するために工場労働しに行き、スペイン内戦が始まったら即すっ飛んで様子を見に行き、第二次世界大戦の初っ端にフランスが敗戦するやロンドンの自由フランス本部に駆けつけるものの事実上干され、ほぼハンスト状態で夭逝した鉄砲玉眼鏡っ娘ヴェイユたんである。
ぼーぼとほぼ同時代の人で、実存主義者という点は共通しているのに、あらゆる意味で対照的。訳文の読みやすさのせいだけでなく、硬質で明晰な論理は完全に理系の印象。ぼーぼは文系の極北といった印象。実際、ヴェイユの兄は数学者のアンドレ・ヴェイユで、完璧な理系家庭だ。
ヴェイユは、マルクスの理論が工業労働を前提としている以上、決して労働者を抑圧から解放しないばかりか、全体主義に容易に繋がることを徹底的に論破する。そして社会における抑圧とは分業のうちに必然的に生じる、分業の指揮者の特権に基づく権力によりなされ、分業の程度、即ち規模が進めば進むほど、個々人は自分の行為が一体何を構成しているのか全く理解できないまま、命じられた作業に服す隷従状態に置かれることになるとする。結局のところ人間の不幸とは、社会システムが個々人の理解を超えるほど規模が肥大し複雑になったことにあるのだと読める。
しかしヴェイユは、唯一隷従が不可能な領域として思考を挙げる。個々の労働者が自分の行為の意味を考えながら労働できる環境は、確かにユートピアだろうが、しかしそんなことは実際のところ可能なんだろうか。現実には、統制できないはずの人間の内面を何とか統制しようとする動きが権力側には必ず生じて、それに対して多くの場合人間は無力であるということが、ナチスドイツでも、戦前の軍国日本でも証明されている。全体主義権力は必ず、個々人に考えるのをやめよ、これが正しいのだから何も考えずに従え、と言う。それに対して、考えることを止めないということが唯一の抵抗なんだろうか。思考を鼓舞する本書後半での議論に対して、彼女自身がその前で社会の抑圧を分析した章に満ちる絶望感があまりにも重く、本当に彼女は最後までこれを信じたのだろうかと思う。