コレラの時代の愛

《うちの息子の病気はたった一つ、コレラなのよ》

(p317)

不敬な本とか紀州な本とかを並行読みしながら、通勤と昼休みにちまちまじわじわ読んでました。読み終わって深い満足感。
十九世紀小説をほとんど読んでないのでこれが十九世紀小説風と言われてもぴんと来ないけど、改行が極端に少なく地の文が延々と続き会話がまた極端に少ないこの形式は、どちらかと言うと爺さんの昔語りみたいな読み心地だった。だから時系列は曖昧だし、話の焦点はうねうねとあちこちに飛ぶし、どこで中断しても続きやオチが気になってしょうがないという焦りはなく、長話に耳を傾ける時間と心の余裕が出来たらまた話の続きを聞くように戻っていくことができる。
古い屋敷を覆いつくす蔦の蔓を伝うように、三人称の視点は表面上崩れないものの、全編に満ちる伝染病の気配に呼応し熱に浮かされたうわごとのように、支離滅裂になる寸前で時間・空間を縦横無尽にスプロールしていく語りは圧倒的だ。美少女だったフェルミーナ・ダーサはいつのまにか結婚して子供を生み中年になり、夫が死んで年老いた未亡人になり、彼女に一目惚れしたフロレンティーノ・アリーサも気づいたときには頭が禿げて入れ歯が不可欠な老人になっている。
ものすごく平たく言ってしまうと、陰気なストーカー気質の男が気まぐれな美少女に一目惚れしお互い盛り上がったものの、あるとき少女が相手をやっぱりキモいと気づいて男を振ってセレブな医者と結婚、振られた男は代償行為的に女性遍歴を重ねながら少女が老婆になり自分が老爺になるまで待ち続け、振られてから51年9ヶ月と4日後に元少女の夫が死んだのを期に再び果敢にアタック、というストーカー一代記とも言うべき内容なんだけど、それを、ああ、まあ愛って所詮妄想だけれども、こういう愛もありだろう、と思わせてしまう魔術が、この語りなのだろう。

「わたしたちくらいの年齢になると、愛だの恋だのというのはばかげているけど」とわめいた。「あの人たちくらいの年だと汚らしいわよ」

(p465)
と作中にも現れる通念への挑戦。と同時に、

「君のために童貞を守り通したんだよ」

(p489)
という台詞が、フロレンティーノ・アリーサの中で、彼自身の51年9ヶ月と4日の間と素行と全く矛盾をきたさず成り立つところで、「愛」の虚偽性とファンタジー性が端的に示される。

そしてこの語りは人を感動させるべく真剣さを保ちながらも、時に吹き出すような滑稽味をも湛えていて実に愉しいんである。

彼がそれまで全力を尽くして戦いながら、ついに勝利を収めることのできなかった大いなる戦闘がある。それは禿げとの戦いだった。

(p378)

というわけで、珍しく予習も出来たので映画公開を楽しみにしていようっと。