ボヴァリー夫人

ソクーロフの『ボヴァリー夫人』を観てきた。シアターイメージフォーラム。(10/24)
20年間封印されていた作品のディレクターズカット公開だそうですが……封印される作品には封印されるだけの理由があるというか。私はこれ、全く好きじゃない。原作未読状態での感想ですが…
まず、舞台は中央ロシアを思わせる荒涼とした土地だ。貧しく、不潔で、旧態依然の田舎。家の中にも常に蝿がぶんぶん飛び回るような環境。この蝿の羽音はエマが街に出て愛人と会っているときにも低く流れつづけて、おそらく彼女がこの環境から逃れられないことを示している。とにかく、映像にフランス的な要素はまるでない。ソクーロフは何を撮っても(『太陽』もそうだったけど)ロシアに変換しちゃうらしい。たとえバックミュージックがあっても奇妙に静まり返って人気のない、荒々しい風景は、不吉で不穏で、不条理劇のような寒々しい絵空事感を重苦しく漂わせる。
そして、主要な登場人物のほとんどが、まともな言葉をしゃべらない。言動も明らかにおかしい。主人公のエマ、その夫、薬剤師、患者の馬番、出入りの商人とそのせむしの娘、誰もがまるで白痴*1のように描かれる。登場人物に対する監督の侮蔑が伝わってくるようだ。見ていて痛烈に感じるのは、起こる全ての事象、全ての人に対する悪意だ。「ボヴァリー夫人は私だ」とは、ソクーロフは思っていないに違いない。そのことを表現するのに、見る角度によってとてつもなく美しくも醜くも見えるセシル・ゼルヴダキのエマは正解だったに違いない。

*1:すみません差別用語とはわかってますが、この表現が一番しっくりくる。監督のスタンスという点から。